わが学会の誇り 鳥居会長から学ぶ

佐々木昭先生(名誉会長)

佐々木昭先生(名誉会長)

学会会員の皆さん、本日はおめでとうございます。

本学会が設立されて40周年に当たる記念すべき大会を本日ここ石川で迎えました。喜びもひとしお、そしてすぐ又新しい節目の旅立ちという緊張を覚えております。

ところで私のご挨拶を、と書き始めましたらすぐに気が付いたのですが、40年前と申しますと、還暦60歳の会員がまだ20歳の若者だった頃、ということですからまだ教師になっておられなかった。70を越えた会員がやっと当時30代の青年教師だった、ということでありますから、本日ここにご出席の40歳以下の方は未だ生れておられなかった。こう申しては僭越でございますが、学会というものを殆んどご存知でない。そうなりますと、私のようなコウキ高齢者、コウキは「後期」ではなく、「光輝」と書きますが、私の知人のある出版社の社長がそう申しておりまして、なる程と感じ入っている者であります。

申し上げたかったことは、私のご挨拶がいつもとは違い、タイムスリップした昔話かと思われるものになるかも知れませんが、単なる過去の話のつもりではなく、現在につながるわが学会の原点と申しますか、「学」を追い求めた設立当時の興奮みたいなものをもう一度振り返ってみてみたい。そうすることが学会というものを手っとり早く知っていただく早道かも知れない。その中でわが学会の生みの親であり、最大の誇りである、鳥居会長という人を知っていただきたいと思うものであります。

私は現職時代に、わが教育学部の英語科に入学してくる新入生の学生に対し、毎年次のような歓迎の辞を述べておりました。その一部を原文のまま紹介させていただきます。(1982年の歓迎の辞より。)

入試は終ったのである。これからまだ大学で英語をやるのは何のためか。なぜ英語なのか。そもそも、なぜ学校で外国語をやるのか。一部の出来る者だけがやればよいのか。それとも全員がやるべきなのか。今や、幼児から英語を教えている所が増えている。中学からでは遅いのか。なぜ、小学校ではやらないのか。健常児だけやればよいのか。知恵遅れの子はやる必要はないのか。こうした問題意識を正しく持とうとする所から、意味ある大学生活が始まる。

一部、現在では訂正の要がありますが、私が言いたかったことは、これらのテーマの何かに関心をもち、それを「問題意識」としてしっかり持つ者と持たない者とでは4年間に大きな差が出来、卒論ないしは修論を書くときの指導がむつかしい。そうなった時の責任の一端は君らにある、ということを入学してきたその時点から知っていてほしい、と呼びかけたものであります。

学会にお入りになる方も似たところがあるのでは、と思うのでありますが、唯、漫然と入られるのではなく、一日でも早く自分のやりたいテーマを発見し、それを手がけている同志と親しい仲になり、協力してより研究を深めていただきたい。そして燃えて欲しいのです。がんばり過ぎて腰が痛くなっても一晩寝れば治る方々ばかりだと信じていますので、そういう方々が増えることが学会が生々としてくることだとご承知おき願いたい。とりあえずは次のような項目に従ってお話を進めることにいたします。

(1) 学会の生い立ち ~立ち揚げた理由~
(2) 本学会の特色
(3) 組織と運営に見る英知 ~人事とシンポジウムの企画~
(4) 人間鳥居から学ぶ
(5) これからの課題

(1) 学会の生い立ち ~立ち揚げた理由~

ご承知のように将来英語教師を志す者にとって大学の英語科教育法は欠かすことのできない受講科目の一つであります。しかし、その実態は殆んどの大学において英文学、英語学という二大学問のはざまに在って、学問としての正当な扱いを受けていない、肩身の狭い存在でありました。単位も当時、英文学、英語学が各6単位。教科教育法はわずか3単位。教育実習(2単位)を入れても合計5単位という扱い。授業の担当者も若手任せが多く、いわばお荷物。「こういうことで日本の英語教育はよいのか」と強い疑問をもたれたのが鳥居次好教授でした。後でも触れますが、氏はわが中部地区および全国の二つの英語教育学会の初代会長であり、また両学会の初代名誉会長に推戴された方であります。「英語科教育法を一つの学問にしよう。そのためには…」という訳で中部地区の各大学英語科教育法担当者に「学会設立趣意書」という名の檄文を送り、奮起を促されました。その趣意書をお書きになるために並々ならぬ情熱をこめられたお姿を私は何度も拝見しております。何ぶん、研究室が向かい合っていましたから。

鳥居次好初代会長 鳥居次好初代会長

「これでいいだろうか」と完成までの草稿を私にも見せて下さり、意見を求められたことがあります。「初心忘るべからず」そう思った私は『紀要』1、1971の創刊号以来、「学会通信」のページ直後にその檄文を載せております。当時は鳥居会長を支え、運営委員長として『紀要』の編集、刊行も私が一人で手がけておりましたので、各大学に送った創立趣意書を捨てるに忍びず、『紀要』に載せ、今日に至っております。(最新の『紀要』39, 2009では、その365頁に載っております。)会員一人ひとりが、今一度、心してお読みいただけるよう、希望して止みません。結果的には、その趣意書に賛同する21名の出席者が中部地区の各大学から集まり、静大で第1回学会設立準備委員会を開催。ときは昭和46年(1971年)1月20日の寒い日でした。その後、半年の準備期間を経て同年7月4日、待望の第1回学会総会を静大で開きました。研究発表申し込みも16名。参加者総数は250余名という思いがけない反響。地区も中部地区に限らず、新潟、東京から出かけて下さった方もあり、顔ぶれも中高大の英語教師に加え、広く短大、高専、教育委員会、英語塾、そして大学生も入り混じった巾広い層の方々が集まりました。中部地区は英訳するとCentral part of Japanだと言って笑ったものです。これが本学会の幕開けであります。これで英語教育をやる人間の寄らば大樹と申しますか、自由に発表できる場、意見をたたかわせる場が出来たということであり、鳥居会長を初め、関係者がみんなほっとした、というのが真実であります。

一つだけエピソードを加えさせていただきますと、遠来の参会者の中に大学構内が分かりにくくて、迷われたらしく、会場への道を尋ねられた方がありました。見ると研究発表用の重いハンドアウトをどっさり手に持って来られたようで、思わず「ご迷惑かけ申訳ない」と心の中で詫びた次第であります。後からわかったことでありますが、その方は当時石川高専にいらした北 弘志先生でした。私の立場からは嬉しい参会者第1号の方であり、爾来親しくおつき合いするきっかけになりました。学会とは、学問の交流にもまして、こういう熱心な得難い人との出会いの場である、ということをしっかり覚えておいていただき、学会という場を最大限に利用していただきたい、と強く希望するものであります。

(2)本学会の特色

ずばり、鳥居会長がおっしゃってることばを引いてご披露申し上げます。

<1> 本学会はスケールの大きい学会にしたい。

→この学会は、人生のあらゆる年令層における英語教育を対象とした日本の英語教育を検討する。時間的には過去から未来にわたる長い見通しをもって。空間的には国際的な広い視野をもって。

<2> この学会は、自由に発言できる、巾の広い学会にしたい。

→過早に境界設定を行なうことを避け、異質なものをなるべく広く採り入れることによって、あらゆる人が自由に発言できる巾の広い学会に。(『紀要』5、1975、巻頭言から)。

今から40年も前の発言でありますが、十分、今日的な内容だと思います。このような二つの願望(というか特色)に象徴されるものをその基本的性格として持つ学会でありますが、他にも口癖のようにおっしゃってたことばを一つつけ加えますと、

<3> この学会は、手弁当の学会である、

ということばでした。

手弁当の学会ですから、会長自らがペンを取って、例えば会費納入の領収書の末尾に直筆でその会員に話しかける一文を添える、という労働を惜しまれませんでした。あるいは外部団体からいくばくかの後援費とか助成金を当てにする、ということを潔しとしない、といった気概を持っておられました。会長自ら率先して何かをやるし、運営委員にも何か一役やって欲しい。そういう空気が学会全体に広がり、「これは自分達の学会なんだ」という意識をみんなが常に持っている学会にしたい、と望んでおられたことは確かなことであります。世間にはどこからか偉い人を引っ張って来て会長ポストに坐ってもらう、という形で出来上がる学会もありますが、そういう学会は長続きしません。わが学会はそういうものとは無縁であり、自らが立ち揚げたという誇りを持った多士済済の学会であります。こういう集団の中にあって切磋琢磨、自分の力量を磨いておられる中に知らず知らず、学会に所属していることの意味がよりはっきり分っていただけるようになる、と固く信じております。

私はこの40年をこの学会と共に過しました。わが学会人世に悔いなしです。その間、鳥居先生との出会いがあり、共に仕事をし、共に旅をした喜びはかけがえのないものでした。旅先では、気のおけぬ同僚が先生と私を迎えてくれ、二人を囲んで大会の成功を話し合ったものです。私は皆さんが私と同じようにそれぞれ充実した人生をこの学会と共に過して下さるよう、心から願っております。

(3) 組織と運営に見る英和 ~人事とシンポジウムの企画~

これはまさしく会長鳥居の面目躍如たるものを感ぜしめることがらでありますが、先程もふれた「異質なものをなるべく広く採り入れ、自由に発言できる学会」という精神を明快に反映させたものが、役員のトップ人事の構成に見られます。即ち、

会長  鳥居 次好(静岡大)
副会長 岩本 憲(岐阜大・教育学)
→この英語と教育学の名コンビに裏打ちされた体制は、「学問」を打ち立てようとする時、偏することのないようチェックできる、という意味で最善の、しかも最強の体制であり、この組合せで最初の8年間(1971~1978)、学会運営の基礎を固める努力が払われたということは、特筆に値することだと思っております。
→教育学がご専門の視点から厳しく指摘されたことは、何と言っても英語教育が未だ「教育」になっていない。他教科から孤立している。/目的論が未だに不安定。教養と実用がばらばら。それなのに教授法だけが独自に発達し実績を持つなんてあり得ない、という厳しい指摘。
会長  鳥居 次好
副会長 徳田 政信(中京大・国語学)
→岩本副会長の辞任に伴い、今度は国文法学者としてつとに名高い徳田政信氏が4年間(1979~1982)鳥居会長を支えました。次に、
会長  佐々木 昭
副会長 徳田 政信(同上)
→鳥居会長のご逝去(1983年9月2日)を受け、佐々木がその後を継ぎましたが、徳田辞任までの3年間(1983~1985)、英語と国語のコンビで仕事をさせていただきました。
→国語学の徳田から教えられたことは、言語・文学が人間のものである限り、英語教育も国語教育も、その根底に人間教育をおかねばならない。/今の英語教育は余りに分化し専門化してしまい、総合性が見失われていないか。生活との結びつきが忘れられ、干涸(から)びていないだろうか。/音声、文学、文法の大事な所では日英比較をやる学習が子供をはっとさせるのではないか、など。

要するに、英語教育を専門にする者の視点だけで「英語教育学」の構築を考えるのではなく、できるだけ違った学問をする人の違った意見を巾広く採り入れ、厳しくチェックしようと意図された鳥居会長の哲学がそこに見られます。その事が最も色濃く反映されたものが、次に見るようなシンポジウムの企画でありまして、この特色は他学会にその類を見ない貴重な実験だった、と言えると思っております。例えば、第1回シンポと第2回シンポを見てみましょう。

第1回シンポ〉静岡、1971

「「学」としての英語教育学樹立の可能性について」
  司会  鳥居次好
  講師  藤掛庄市(岐阜大・英語教育)
      斎藤武生(静岡大・英語学
      徳田政信(中京大・国語学

第2回シンポ〉静岡、1972

「英語教育学は何をするべきか―英語教師の養成及び自己研修のために―」
司会  岩本 憲(岐阜大・教育学
  講師  丸茂健蔵(山梨大・英語教育)
      中山兼芳(沼津言語教育研究所)
      佐々木昭(静岡大)
      志村鏡一郎(静大・教育史
      田辺洋二(早大・英語教育)

専門が他分野の方の発言要旨:

第1回シンポ>静岡、1971 徳田政信(国語学):

「学」(science)とは体系的、法則的な認識のことであるから、国語教育も英語教育も言語教育という共通の問題を抱えている。その時具備すべき条件とは何か。/人文科学と自然科学はどう違うか。/英語教育は技術と知識の寄木細工ではなく、一元的、統一的構造において把握することが大切。

第2回シンポ>静岡、1972 志村鏡一郎(教育史):

司会の岩本憲の概評によれば、志村氏の提言は他の4氏と発想を異にし、英語教育を国民教育の一環として把える必要性を力説。/英語教育学を体系的に確立するには現代日本の公教育の中で英語教育が何を目的とするかを明らかにすべき、とした見逃すことのできぬ提案だという。

確かにこの志村提案は、英語教師にとって大切であると私も思います。今一度、英語教師は自分を振り返って、「自分は何のために毎日英語を教えているのだろうか」と真剣に自問自答してみて下さい。その時初めて問題が前進し始めるのではないか、と思うからであります。英語教師だけでこの英語教育目的論をシンポでやったら果たしてどんな明解な答えがとび出してくるのでしょうか。

以上、2回分のシンポを振り返っただけですが、私のご挨拶の許す範囲をとっくに越えてしまいそうなので、以下、シンポの「テーマ」と「異色の講師」の紹介にとどめ、先を急がせていただきます。

第3回シンポ>岐阜大、1973
 「英語教育学のカリキュラムについて」
  講師  角替 弘志(静大・社会教育
      成瀬 正行(岐大・教育工学
      深谷  哲 (愛教大・フランス語

第4回シンポ>福井大、1974
 「英語教育学の発展をはばむもの」
  司会  鳥居 次好
  講師  藤掛 庄市(岐大)
      青木 昭六(三重大)
      羽鳥 博愛(東京学芸大

以後は、

第5回シンポ>高知、1975

→全国英語教育学会と合同で中部地区学会を開催、という異色なシンポジウム。但し台風のため、高知に来れなかったパネリスト2名に代り、ピンチヒッターを起用してシンポを実施。司会鳥居が気転をきかせて急場を切り抜けた活躍が光った。

第6回シンポ>和歌山、1976
 「学校における英語教育とそれ以外の英語教育に相違があるとすればそれは何か」
       伊藤 健三(立教大)

第7回シンポ>三重大、1977
  「日本の英語教育の特殊性」
       黒川泰男(日本福祉大)

このように順調に回を重ね、本日の第40回シンポ(石川、2010)を迎えるのでありますが、改めてシンポのテーマだけを拾い読みしても、飽くことなき学問追求の姿勢がそこに感じられるのではないでしょうか。又、パネリストの意見なり提案を読むと、絞り出したような苦悩が伝わって参りまして、改めてパネリスト各位に対し深甚なる謝意と敬意を表す次第であります。

それにしても会長鳥居が労を厭わず、積極的に司会を引き受けシンポを盛り上げられた功績は多大なものであったと思います。シンポは「大会のハイライト」であり、パネリストはいわば「学会の顔」でありますから、会員の方は学会に出席されたら、是非シンポに耳を傾け、自らもフロアから発言して欲しいということであります。フロアの盛り上がり方によって、その年の大会評価が決まると言っても決して過言ではありません。このお願いを是非この機会に申し上げておきたく存じます。

エピソードになりますが、鳥居はフロアに居ても手を挙げ、堂々と意見を述べる人でした。私はいつも鳥居と一緒にいましたから覚えているのでありますが、あの有名な平泉試案の発表(1974)があった年のある集会で、鳥居が止むに止まれぬ気持から手を挙げ、この試案に対する反対意見を述べた時、さすが鳥居だと、その勇気ある姿が私には崇高に見えたことを忘れることができません。大人しい英語教師だって言うべき時はきちんと言え、そういう人世態度を持つべしと暗黒裡に教えられたのかも知れません。

(4) 人間鳥居から学ぶ

鳥居が学会で司会をやっていた時の写真を持って参りましたので、まずは見て下さい。何といい表情なんでしょうか。穏やかで人間的な温かみがにじみ出ております。手にはちゃんと筆が握られておりますが、これは日頃からおっしゃてることの実践です。人の発表を聞く時は、司会であろうとなかろうと、何か筆を手に持って聴くのが相手に対するマナーだとよく言っておられました。小さいことですが見習いことだと思います。

ところで鳥居は中部の学会を設立(1971)するや否や、すぐに取りかからねばならぬ仕事がありました。それは文部省と教員養成大学の共同主催で3年連続行われてきた学部教官研究集会の最終回を静岡で開くことになっていたからです。

昭和47年(1972)文部省・宮城教育大
 〃48年(1973) 〃  ・岡山大
 〃49年(1974) 〃  ・静岡大

私の見たところ、鳥居が最も奮起するきっかけになったのは最初の宮城教育大での集会で、その学長(林 竹二氏)が挨拶の中でいきなり、「英語を担当されてる先生方には失礼でありますが、英語ほど非生産的な教育活動はないのじゃないかと思います。」と手厳しい感想を漏らされたことであります。鳥居はこういう時、自分が責任を人一倍感じて受けとめる人であった、と私は思っております。

そういう訳で静岡での上記、学部教官研究集会が済むや否や、そのまとめとして、計74名の英語科教官に執筆依頼をされ、それを鳥居ひとりで根(こん)をつめた一冊の報告書にまとめる、という仕事に取りかかられたのであります。鳥居は家にいる時は作務衣(さむえ)という和服の仕事着をいつも着ており、夏は剣道着のような甚兵衛、冬は着物、という風に一年中、和風スタイルで過ごす人でした。おまけに仕事は畳の和室で座卓に坐ってなさる。こういうことをきちっと決めて実行する人も珍しいし、私は鳥居を現代の「侍」だと見ております。

話が少しそれましたが、上記74名の論考をせっせとまとめ、一冊の英語科教育法テキストとして誕生させたものが『英語科教育の研究』1975年3月31日 初版・大修館書店という本であります。この本が完成し、以後、教科教育法の第1号のテキストとして重宝され全国で使われ、今日に及んでいます。

ところで鳥居は本学会の会長である時、途中で高知で行われた第1回全国英語教育学会に出席し、そこでもその初代会長に選ばれました(私も鳥居を助けて事務局長を仰せつかったので、二人は急に超多忙な身になりました)。

とたんに鳥居が悩み始めたことが二つあります。一つは、紀要を持たない組織は学会ではないという持論。今の「全国」はその紀要がない。もう一つは、「全国」の固有の会員がいない。今の「全国」は各地区にある英語教育学会の「連合体」に過ぎない。これがいつかは、「統一体」の会員を持つようにならなければならない、と。

結論から申し上げますと、念願の全国の紀要は1990年、その創刊号を発行。ARELEと呼びますが、私が鳥居に代って鳥居の抱いていた夢を実現させたもので、(勿論会員みんなの協力があって出来たことでありますが)鳥居がやっと喜んでくれたであろう、とひそかに思っております。一方、「統一体」の会員の方はもう少し遅れて2001年に松畑統一体初代会長のもとで実現いたしました。いずれも鳥居の生存中には間に合わなかったことですけれども、こうした英語教育と学会のあり様について見通すというか、課題を的確に掴み、その解決の必要性を早くから指摘する先見性を持っていたのは鳥居だった。これが鳥居の夢であり、ロマンティシズムだったことを教えられるのであります。鳥居は人に優しく親切で、何より謙虚、責任感旺盛で仕事が出来、こんな魅力的な性格な人はそう滅多にいないと誰もが思うだろうという点でわが中部地区学会の最大の誇りであります。いや、中部だけでなく日本の、全国の英語教育界を代表する第一人者でありました。私はそう信じております。巨星落つ、とはこういう人を失った時の悲しみをいう言葉だろうと思っています。人に優しく親切、で思い出すのは鳥居が『現代英語教育』研究社の誌上で「パラフレーズ」及び"Can you say it in another way?"と題する自由英作文講座を担当したとき(1965年4月~1973年7月までのなんと8年3カ月も)、常連の投稿者だった教え子の一人S.Ohno氏が語る話では、英語の添削だけでなく、必ずコメントがつき励ましの言葉さえ添えられた用紙が送られて来て感動したという。鳥居はそこまでのサービスを希望者にはして差し上げます、と全国に公言し、かつきちっとやり通す人だからすごい。その実力もそうだが、ここまで英語教育を育てんとする強い意志と情熱は普通の人にはとうてい真似が出来ません。

もう一つ。エピソードですが、子供の早期英語教育をやっている学校の開所式に行って祝辞を述べる機会があった時、鳥居は次のような趣旨のことを話して来た、と私に語ってくれたことを覚えております。即ち、このような早期から英語を学ぶ機会に恵まれた子供達が、そういう機会に恵まれなかった子供達に対し優越感を持ったり馬鹿にしたりするような風潮が生れたら、その早期英語教育は失敗である。何故なら英語教育とは人間教育であるから、とおっしゃった。違う言い方をするなら、人より少しでも早く英語という外国語を与えることがその子にとって必ずしも幸せなのではなく、どういう人間形成がそこでなされているかが問われるのが教育である、と。それ故に、例えば、その子の母語習得が未完成の段階で、何らかの外国語がどんどん頭の中に入ってくることは、決して幸せなことではなく、かえって子供をだめにする。不幸にすることかも知れない、と世の親たちは考えてみることが大切だという話であります。

こういう信念の人でしたから人から誤解されることも正直、ありました。中部地区の大会を沖縄でやろう、と提案された時、何故沖縄かと抵抗する声が大きかった時に鳥居が言い放った言葉は次のようなものでした。「本土の人は沖縄のことを知らなさ過ぎる。今度の沖縄大会は日本の英語教育を巨視的に眺める絶好の機会であると思います。われわれがやろうとしていることの価値については絶対に自信を失うことなく全国にしても中部にしても長続きのする方法を考えなければならないと思います。私は決してあせらず、しかし決してあきらめず、ねばり強くやっていきます。」「誤解をする(される)ことは仕方ありません。気を長くしてやりましょう。」(私信)。私は鳥居の信念の強さに打たれ、その情熱に応えるため、一人でも多くの会員を沖縄に送ろうと決心。チャーター便の飛行機の手配を真剣に検討した思い出が忘れられません。英語教育はこういう熱意の人があって初めて動くものではないでしょうか。

(5) これからの課題

すでに紙幅の限界に達していますので、この課題につきましては本日の*シンポジウムのところで発言させていただきたいと思います。ご了承下さい。

*平成22年6月27日開催、第40回中部地区英語教育学会学会設立40周年記念石川大会、シンポジューム「中部地区英語教育学会40周年を振り返り英語教育の未来を展望するー英語教育学発展のためにー」